なぜ同じ服を着るべきなのか

なぜ同じ服を着るべきなのか

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同じ服を毎日着る人を最近見る。”新進気鋭の”とかが枕詞になるタイプの人に多い印象。「なぜか」と問うと着るものへの選択肢を減らしたい、みたいなことが大抵返ってくるけど、なんかセンスがないというか胡散臭いというか、その辺りについて考えてみました。

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■ 今日聴いた曲 カウント・ベイシー「Jazz Moods: Hot」

https://open.spotify.com/album/7LlhGCJYb8f9TtMz6OAVHK?si=xZqBmMIfS822DZaSAP-AxA

とりあえず今流してるものを。

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*現在mediumからnoteへの移行中につき、記事の全文を無料公開しています。なお、こちらの記事は2021年10月21日に書かれたものです。

なぜ同じ服を着るべきか

「着るものへの選択肢を減らしたい」みたいな人がいます。 そのとき、多くの方がジョブズを例に挙げます。

僕は意地が悪いのでしょうか。 「別に貴方はジョブズではないでしょ」と思います。 例えば、僕はジョブズ様ほど多忙でもないし、僕に与えられた選択をそれなりにはこなしているつもりだし、何も形だけジョブズ気取りをしたって…みたいな。

しかし、そんな僕の考えもまた、変に偏ってるなと思い直すことがあります。 だって生産性とか効率性みたいな文脈で、いわゆる”社会人”として集団と接する観点でもってすれば、そもそも”レベル”の話ではなく、”態度”の問題なんだと理解できるから。

貴方・僕がジョブズレベルの選択をしている・していないの話ではなく、自分の選択に責任を持つこと、真摯な姿勢を対外的に示すことが重要なのかもしれない、と。

僕だって、日々のタスクは、全部を覚えておくことだってできるだろうけれど、”敢えて”全てをtodoistに放り込んで、一つ一つ消し込んでいくようにタスクをこなしていくのは、背負ってる責任と期待になるべく応えようとする姿勢・プロセスを他者に見せることに他ならない。

だから、「ジョブズがどうのこうの」ではなくて、そもそも大切なことなのかもしれない、と。 なるほど、じゃあ服は絞り込んだ方が良いのか、とか思いつつも、だとしたら逆に「ジョブズ」を例に挙げている方は、その時点で服を減らすことへの重要性をどこまで認識されているのか疑問になってしまいます。

言うなれば、「人助けは良いことなのだ」で良いじゃないかと。 何も「ジョブズさんがやってたから」なんていう尾鰭をつける必要はないんじゃないかと。

別の話も聞いたことがあります。

そもそも、貴方の服なんかにほとんどの人が興味を示していないという事実がある。だから、印象としてなんとなく小綺麗な格好をしてりゃ良いのだ

的な。

ただ、 ・多くの人が自分の格好に興味を持たないこと、を理由に ・自分の格好を適度に整えときゃ良い、みたいなことを短絡的に正当化できてしまうことに、僕は疑問を覚えます。

アートを例に挙げてみればさ。 “よく分からない”みたいなスタンスの人が多く、価値があると思った少数の人が詳しく見るもの、みたいに感じます。

服は十分にアートの文脈でも語れ得るものだと思います。 だから、服にほとんどの人が興味がわかない、そりゃそうでしょう。 けれど、それで良いじゃないか、と思うのです。 アートがわからないなら、わからなければ良いのです。 決して、「わからないから」と言って、その態度を押し付けるのは許されることではありませんし、逆もまた然りと考えるのです。

つらつら喋ってきましたが、そういう自分はどういうスタンスなんだと。

申しますと、私は実は何でもかんでも服をかき集めたいわけではありません。というか、毎日同じ服を着る人、着る服を絞り込んでいく人に憧れすら抱いちゃってる側の人間です。

というのも、私がおしゃれだなと、服のスタイルに美しさを感じる人は往々にして、似たようなスタイルを毎日しているのです。

例えば、シャツにもいろんな種類があるけれど、結局は、無地の白とサックスブルーだけで十分だから、みたいなところに行き着く。 「これで十分」と言わんばかりに。

ただし。

ここからが強調したい点なのですが、その方達は、相当な数の服を着てきて、40過ぎてようやく辿り着いた境地、みたいな感じなのです。

私はここに、先のような「ジョブズフォロワー」との大きな隔たりを感じ流のです。 僕が憧れているのは「ジョブズフォロワー」ではなく、「ケッキョクジョブズ」なのです。

多分、ジョブズも「ケッキョクジョブズ」側だったのではないかと思うのです。

選択の量が減ったとか、悩むことがなくなったとかいうのは、ジョブズ的にも決して目的ではなくてあくまでも付随してついてきたメリットくらいのものなんじゃないかと。

ただ「究極」といえるスタイルを見つけた結果、いろんなものがついてきた、だからこそ”究極”なのですが。

可視的なレベルで何を着てるか(What)を揃えようとしたって、そこに流れ着くまでの、なぜそうしたか、あるいは、どう考えたか、のほうが大切だと思うのです。


元記事URL: https://note.com/reitsuzuki/n/ncb2e6511d671 公開日: 2022-03-19 11:13

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