はんぶんのいのち
はんぶんのいのち
1日を生きる。 次の日、何があったかを振り返る。 そして考える。 最後に文字に残す。 そしてまた次の1日を生きる。
簡単な話、1日を終えるのに、2日掛けている。
まるで普通の人の半分しか生きられないみたいじゃないか。
半分の命を差し出してまで、僕は何を得ようとしているのか。
僕にとって書くとはどういうことなのか。
少しずつ、言葉にしていきたい。
まず、「言葉を紡ぐこと」と、「言葉について考えること」の違いについて触れておきたい。
大前提、僕は言葉について考えることは実はそんなにセンスのある行為だとは思わない。
例えば「愛するとは」について考えてみようか。
シンプルに言って、どう考えて良いかわからないはず。
適当に自分の手元に流れ着いてきたありきたりなキーワードを多少手に取って眺めて、みたいなもの。
そんなぼんやりとした思索の活動しかすることができずに結局はキレの悪さの感覚だけを残して終わってしまう。
言葉が先にあって、まずはそれについて考えよう、みたいなのは、そもそもあんまり本質的じゃない。
例えば「私のこと愛してるの?」と聞かれたとき、「いや、そもそも愛してるの定義がわからない」とか、そんなこといったって状況は何も変わらない。
一番は感じることだ。愛するとは、目と目が合ったときにできる一本の熱を持った線のことだ
言葉を紡ぐことこそが本質的である。
言葉にすることは、まだ自分の中で言葉になっていないものに言葉を授ける行為だ。
話を進めていくと、文字を紡ぐことは、実は左脳ではなく、右脳から始まる。
内で芽生えた感覚や感情に耳を澄ますことから全てが始まるからだ。
そして顕在化された意識や感情にまるで名前を授けるがごとく、言葉を当てていく。
自分の中にこびりついていた感情や意識は輪郭を持ち、自己と切り離される。
風船のようにお空に浮いていく。
そう、言葉を紡ぐことは風船を作ってお空に浮かべることなのである。
ここまでの整理をした上で、本題に入る。
僕は限りある命のいくばかりかを割いて、過去を振り返り、自分を見つめ、言葉にしながら、ゆっくり前に進んでいる。ここになんの意味があるのだろう。
もしかしたら、書くということは、実は時間の密度を変えることなのかもしれない。
普通の人が一日を線形に体験している間に、書く人は同じ一日を螺旋状に体験している。
過去の自分と現在の自分が対話し、未来の自分が覗き込んでくる。
時間が折り畳まれ、重なり合い、厚みを持つ。
半分の命を差し出しているのではなく、命を濃縮しているのである。
考えてみれば、人間の意識には奇妙な性質がある。
体験している瞬間には、その体験の本当の輪郭が見えない。
恋に落ちている最中に恋の正体は分からないし、悲しみの渦中では悲しみの構造が掴めない。
感情や体験は、時間的な距離を置いて初めて、その真の姿を現す。
書くという行為は、この時間的距離を人工的に創り出す技術なのだ。
そして、ここに書くことの第一の意味がある。
体験を「完成」させることだ。
生きているだけでは、体験は未完成のまま心の奥底に沈殿していく。
モヤモヤした感情、消化しきれない出来事、言語化されない違和感。これらは無意識の底で発酵し続け、時に毒素となって表面に浮上してくる。
書くことで、これらの未完成な体験に輪郭を与え、物語を与え、意味を与える。体験が完成する。そして完成した体験は、もはや自分を支配しない。風船のようにお空に浮かんでいくだけだ。
そして、もう一つの次元、「未来の自分との対話」も重要だ。
今日書いた文章は、未来の自分が読む。
そのとき、今の自分は過去の自分になっている。つまり、書くことは時間を超えた自己との通信なのだ。
過去の自分から未来の自分へのメッセージ。
そして興味深いことに、このメッセージは往復する。未来の自分が過去の文章を読むとき、過去の自分の意図を超えた新しい意味を発見することがある。
過去の自分が言おうとしていたことを、未来の自分がより深く理解する。時を超えた協働作業が生まれる。
さらに、書くことには第三の次元がある。「他者との共鳴」だ。
言葉にならない感情や体験は、実は自分だけのものではない。人間の体験には、個人を超えた普遍的な層がある。自分の奥底にある感情を言葉にするとき、それは同時に他者の心の奥底にある同じ感情を照らし出す。
書くことで、私たちは孤立した個人から、人間という種の集合的な記憶と体験の一部になる。
そして最後に、書くことの最も深い意味がある。それは「存在の証明」だ。
デカルトは「我思う、故に我あり」と言ったが、より正確には「我書く、故に我あり」なのかもしれない。
思考は消えゆくものだが、書かれた言葉は残る。
書くことで、私たちの存在は物理的な身体の限界を超えて拡張する。
僕が得ているものは時間の密度化であり、体験の完成であり、自己との対話であり、他者との共鳴であり、そして存在の拡張なのだ。
2分の1の人生を生きているのではなく、2倍濃い生き方をしているのだ。
元記事URL: https://note.com/reitsuzuki/n/nc8f0c77f9d1e 公開日: 2025-05-29 18:57
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