キャンバスの向こう側:アートと金銭の境界線を探る
キャンバスの向こう側:アートと金銭の境界線を探る
朝日が窓から差し込み、私の目を覚ます。Notting Hillの静寂が、まだ眠りについている街の息遣いを感じさせる。起き上がり、窓越しにArundel Squareの公園を見やる。まだ誰もいない芝生が、昨夜の雨で濡れて輝いている。
コーヒーを淹れながら、昨日見た展覧会のことを思い出す。Golden Squareにある小さなギャラリーで開催されていた新進気鋭のアーティストの個展。彼の作品は確かに魅力的だった。鮮やかな色彩と大胆な構図が、観る者の心を掴む。しかし、その価格設定に驚いた。若いアーティストの作品としては法外だ。
カップを手に取り、熱いコーヒーを一口すする。その苦みが、昨夜から胸に溜まっていた違和感を呼び覚ます。芸術の価値とは何だろう?金銭で測れるものなのか?
ふと、昔読んだヴァルター・ベンヤミンの「複製技術時代の芸術作品」を思い出す。芸術作品のアウラについて述べた彼の理論が、今の状況にどう適用できるだろうか。デジタル時代において、オリジナルの価値はむしろ高まっているのかもしれない。
しかし、それは果たして正しいことなのだろうか。芸術は特権階級のものではなく、万人のものであるべきではないか。高額な作品を買える富裕層だけが芸術を所有できるというのは、どこか間違っている気がする。
窓の外を見ると、公園に人影が見え始めた。朝のジョギングを楽しむ人、犬の散歩をする人。彼らにとって、芸術とは何だろう?日常の中で、どのように芸術と向き合っているのだろうか。
コーヒーを飲み干し、キッチンに向かう。トーストを焼きながら、アーティストの生活について考える。才能ある人が、その才能で生計を立てられることは素晴らしい。しかし、それが他者の犠牲の上に成り立つものであってはならない。
バターを塗ったトーストを口に運びながら、昨日の展覧会で見た絵画を思い出す。確かに素晴らしい作品だった。しかし、その価格を見て感じた違和感は、単なる嫉妬だったのだろうか?それとも、社会正義への本能的な反応だったのか?
朝食を終え、書斎に向かう。今日の原稿のテーマが決まった気がする。芸術の価値、経済との関係、そして社会における芸術の役割について。キーボードに向かい、指を置く。
しかし、その前に深呼吸をする。自分の中にある偏見や先入観を取り払い、できるだけ客観的に考えようと努める。アーティストの立場、購入者の立場、そして一般の鑑賞者の立場。それぞれの視点から、この問題を見つめ直してみよう。
キーボードを叩き始める。言葉が流れ出す。「芸術の価値とは何か?それは金銭で測れるものなのか、それとも…」
窓の外では、Notting Hillの街が徐々に活気づき始めている。私の内なる対話と同じように、この街も日々、様々な価値観のせめぎ合いの中で生きている。その複雑さ、多様性こそが、この街の、そして芸術の真の魅力なのかもしれない。
Atogaki
絵を描くアーティストは、金持ちからお金を巻き上げているところが良いと思う。一般の個人が借金してまで貢ぐ行為をして身を滅ぼしている人が実際にいるなかで、自分だけのうのうとスターを気取っているような人にはなりたくない。その意味で、「誰からお金をいただいて生きているか」というのは非常に重要な視点だ。一般個人からお金をいただくのは悪いことだとは思わない。が、際限なくふんだくろうとする、その行為は営利企業として正しくても、僕は何か別のより本質的で普遍的な観点において正しいことではないと確信している。見ていて気持ちの悪さを覚える人たちがいる。
都築怜
元記事URL: https://note.com/reitsuzuki/n/n9a0364ae27f5 公開日: 2024-09-17 18:00
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