噂話と司法の「強弱」と「前後」
噂話と司法の「強弱」と「前後」
最近、サピエンス全史を読んでいる。
我が種、ホモ=サピエンスが他の有象無象のなかで生き継いできたのは1つに「噂話」があったから、というのは有名な話。
とはいえ、だから昨今、いまだ癖として習慣づいている噂話とやらが、自然なるままの行為として、食う寝る動揺、認められるものだと、ある意味での開き直りをするのは、なんだか、少し苦い感覚が残る。
司法のアイデンティティがここにきて改めて見直されているような気がする。人が増えるだけ、人を頂点とした角形の対角線の数が増えるように、それだけ噂話が増えるのは自明のような気もするし、そこにSNSの発達が拍車をかけているのだと思う。
噂話があまりにも強大になりすぎて、司法の判決を待つ前に、民衆によって裁かれている現状を危惧する声も耳にするようになった。
僕もその意見には賛同する。
一方で、冒頭の開き直り論に戻るわけではないが、司法と噂話には、強弱だけでなく、前後もあって、司法よりも前に噂話があったのだ。
そんな今の現状が変わることがあるとすれば、そのきっかけは間違いなく、テクノロジーの発展にあると思う。「人の変化」ではなく。
元記事URL: https://note.com/reitsuzuki/n/n29d37276b1ea 公開日: 2024-02-02 18:00
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