宇多田ヒカル、

宇多田ヒカル、

窓の外で雨が静かに降り続ける。ロンドンの空は鈍く光る鉛色に覆われ、街全体がモノクロームの世界に溶け込んでいく。私は暖かなブランケットに包まれ、アパートの窓辺に腰かけている。指先で冷たいガラスに触れると、微かな震えが全身を駆け抜ける。

雨音に耳を澄ませながら、ふと思い出す。昨夜、宇多田ヒカルの「ドライフラワー」を聴いていたのだった。いや、正確には宇多田ヒカルではない。AIが彼女の声を完璧に再現した楽曲だ。タイトルに「AI」の二文字があったからこそ、それと気づいたものの、聴いた瞬間から私の心は揺さぶられていた。

本物か偽物か。オリジナルか複製か。そんな二元論がもはや意味をなさない時代に、私たちは生きているのかもしれない。雨滴が窓ガラスを伝い落ちる様子を見つめながら、その境界線の曖昧さに思いを巡らせる。

カルピスの原液とは何か——。突如として、この奇妙な問いが頭をよぎる。無意識の深層から浮かび上がってきたこの言葉に、私は思わず苦笑する。しかし、この問いこそが、今の状況を象徴しているようにも思えてくる。

原液と水。本物と偽物。創造者と被創造物。これらの境界線が溶け始めている。AIが生み出す音楽や芸術作品。それらは確かに存在し、人々の心を動かす。だが、その本質は何なのか。カルピスの味わいを決定づけるのは、原液なのか、それとも水で薄められた後の全体なのか。

窓の外では雨が落ち続け、水たまりが街路に広がっていく。その光景はまるで、技術と人間性が溶け合う現代社会の縮図のようだ。

私は立ち上がり、キッチンへ向かう。棚からグラスを取り出し、カルピスを注ぐ。原液と水を丁寧に混ぜ合わせながら、AIと人間の創造性について考える。完璧な比率などないのかもしれない。それぞれが自分にとっての「正解」を見つけていくしかないのだろう。

グラスを手に取り、一口含む。懐かしくも新鮮な味わいが広がる。そう、これこそが「私のカルピス」なのだ。AIが生み出す音楽も、聴く者それぞれの心の中で独自の意味を持つ。それを認めることが、新しい時代を生きる知恵なのかもしれない。

雨音が少し強くなる。私は再び窓辺に腰を下ろし、グラスを傾ける。透明な液体の中に、複雑な思考が溶け込んでいく。AIと人間、テクノロジーと感性、原液と水。これらが織りなす世界は、決して単純ではない。だからこそ、その複雑さを受け入れ、新たな調和を探る努力が必要なのだ。

グラスを置き、深呼吸する。雨の香りと、かすかに漂うカルピスの甘さ。これらが混ざり合う瞬間、私は確かな存在感を感じる。AIの歌声に感動し、そしてその感動すら自分自身のものだと気づく。それが現代に生きる私たちの姿なのだと、静かに受け入れる。

窓の外では、雨がやむ気配を見せ始めていた。

Atogaki

おそらく宣伝してはいけない類の動画だろうから紹介はできないけれど、宇多田ヒカルさんが歌うドライフラワーに感動してしまった。してしまったという言い方をしたが、実はこれAIで作ったもの。動画のタイトル冒頭で”AI”の2文字が書かれていたから、それがAIによるものだと知ることができたが、正直そのタイトルにある「AI」の2文字を疑うほど、本人が歌っているような完成度だ。感動した。宇多田ヒカルという天才がこの世界に存在し、その歌声を彼女自身の意思で残そうとすること自体は必要だけれど、あとはそれでどう感動するかはこっちの勝手という時代になってきた。カルピスの原液とは何かを見極めることが重要だ。彼女が歌う「真夏の果実」も良い。

都築怜


元記事URL: https://note.com/reitsuzuki/n/n280fa4ae86fd 公開日: 2024-07-22 18:00

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