定義厨批判3.0
定義厨批判3.0
そもそも、「言葉の意味はうつろいゆくもの」というのが僕の見解だ。それは、使い手である人間が変わっていくから。その言葉が使われる頻度やシチュエーションが変化したり、あるいは、新たな意味合いの添加されたりすることによって、言葉同士で構成される相対的な位置感関が変化していくのである。
そのもとで今、僕の目の前に2つの違和感が顕在化されていることを共有したい。
1つ目は、原理主義に対するもの。
例えば「元々、この言葉はこういう意味だった。だからこれが本質だ」という捉え方に違和感を感じる。ヒストリーを無視して、その言葉の出発点だけを取り上げても、その言葉の意味を本質的に捉えることにはなり得ないと思うのだ。
もし、誰かが道端でどんぐりを拾ってきて、「史実的に1万円札は元々これだったんだ。だからあなたが持ってるお札と交換しよう。」と言われたとして、その交渉に応じるだろうか?そこにロマンはあっても本質はない。
この1つ目の違和感について、僕なりにまとめてみた。
それは、「言葉の意味を”出発地点で”、固定化している」と。
その意味で「”現在地点で”、固定化すること」の違和感もまた感じることになる。
これが2つ目の違和感。
言葉を見つけてきては、意味が動かぬようにガシッと固定させる。そして、その輪郭をなぞるように定義を決めて、まるでその定義が未来永劫変わらない真実かのように語るのであるが、これにもまた、違和感を唱えざるを得ない。
その瞬間で意味を凍結化させる感じは微分してる感じに近い気もする。しかし、決してそのグラフは直線構造ではない。だから、どうしてもその定義には「仮置き感」というか、思考実験のための仮定に過ぎないような気がしてならない。
じゃあ意味を固定化すること、定義を設定することがよくないかというとそうではない。思考実験は、考えにくいものを考えやすくするというメリットがある。意味を固定化しないと、論理関係を構築することが難しい。
一方で、今の時代、「考えやすくなる」だったり、「論理が組める」だったりが、あくまでも「人間にとって」という主体の前提があったことに気づかねばならないとも思う。
というのも、以前、自分が書いてきた全ての記事をAIに読み込ませて、身体性を持たないもう一人の自分を作ろうと試みたことがあった。
そのとき、どのように読み込んでもらうか色々試行錯誤した。丸々2年書き続けてきた文章の量はそれなりに多く、原文ママでの読み込みが厳しいと。
だから、一旦、分析材料をAIに作らせようとしていた。
例えば、意味が変わらない範囲でAIに文章を圧縮させたり、項目に沿って分析結果をまとめた「カルテ」みたいなものを記事ごとにAIに作らせたり、など。
ただ結局、それは中断された。
AIの性能が上がることさえ待てば、原文ママに勝るものなんてないと思ったから。きっとAIにとってみれば、項目に沿って整理されてしまった情報、すなわち、本物(実際の文)と乖離がある情報、である方が分析結果に濁りが生じるだろうし、AIも望んでないだろう。
人間が考えるべきことは、その情報の保存手段だけだと。
最後に2点だけ、あと言っておきたいこと。
僕は言葉の定義厨に強烈な違和感を抱く一方で、「それは違う」としか反論できない自分の態度もまたおかしい気がしている。
なぜなら、「言葉の意味や本質は文脈の中にしかない」と言い切ってしまうことは実に簡単で、その労力コストは、定義厨が定義をせっせと考えるよりも圧倒的に少ない。ここにnot fairな状況が確かにある。
だからと言って、はっきりとした物言い、それこそ定義に定義で返してもそれはそれでおかしな話だ。
それともう一つ。一言で言葉と言ってもいろんな言葉がある。意味がうつろいやすい言葉と、意味が変わりにくい言葉というのは当然ある。川の流れの急なところ、緩やかなところ、ほぼ動かないところがあるように。
なんなら、ほぼ数式のように記号化されている言葉なんてものもあるから、自分がどんな言葉に囲まれて生きているかによってもまた、この感覚は変わってくるのだと思う。
元記事URL: https://note.com/reitsuzuki/n/ncda6ecb6ba9b 公開日: 2024-03-05 18:00
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