忙しさの中で、どうゆとりを獲得していくか、という話。
忙しさの中で、どうゆとりを獲得していくか、という話。
ロンドンの朝は、いつも静かな騒音と共に始まる。目覚めの瞬間、私の意識は量子の重ね合わせのように、まどろみと覚醒の狭間で揺れ動く。ベッドから身を起こす前に、窓の外を見る。アーンドル・スクエアの木々が、朝もやの中でぼんやりと姿を現している。この瞬間、私は忙しさに追われる一日の始まりと、静寂に包まれた朝の永遠性を同時に感じている。
コーヒーメーカーのスイッチを入れる。豆が挽かれる音が部屋に響き、その香りが私の意識を少しずつ現実世界に引き戻す。The Rosemary Gardenで買った豆だ。あの店の窓際の席で過ごす時間は、忙しさの中の小さな避難所だった。しかし今、その記憶さえも、これから始まる一日の責務に押しつぶされそうになる。
「忙しいから忙殺されるのではない」という言葉が、突然、頭の中で鳴り響く。村上春樹の本で読んだ一節だ。その瞬間、私の意識は再び量子状態に入り、忙殺される自分と、ゆったりとした時間の中で生きる自分が同時に存在する。
シャワーを浴びながら、私は水滴の一つ一つが、選択の瞬間を表しているように感じる。各滴が肌に触れる度に、「忙しさ」と「余裕」の間で揺れ動く私の存在を感じる。温かい湯気が立ち込める中、鏡に映る自分の姿が、霞んでいるようでいて、奇妙なほど鮮明に見える。
服を選ぶ時、手は自然とHarris Tweedのジャケットに伸びる。この生地の質感に触れると、スコットランドの職人たちの丁寧な仕事を思い出す。忙しない世界に生きる彼らと、ロンドンの喧騒に身を置く自分。その対比が、私の中で新たな視点を生み出す。
朝食を取りながら、携帯電話の通知を確認する。メール、リマインダー、ニュース速報。それぞれが、これから始まる一日の「忙しさ」を予告している。しかし、グラノーラの香ばしい香りと、新鮮なフルーツの酸味が、私の意識を現在の瞬間に引き戻す。「忙殺されるような過ごし方をするから忙殺されるのだ」。その認識が、朝の静けさの中で、クリスタルのように鮮明になる。
アパートを出る直前、祖父の形見の銀製懐中時計を手に取る。秒針の動きを見つめていると、時間の流れが相対的なものに感じられる。忙しさも、ゆとりも、結局は自分の知覚の問題なのかもしれない。
エレベーターのない建物の階段を下りながら、私は各段階が人生の選択の瞬間を表しているように感じる。上るのか、下るのか。急ぐのか、ゆっくり進むのか。全ては自分次第だ。
外に出ると、ロンドンの朝の空気が肌を撫でる。雨上がりの石畳が、かすかに光を反射している。周りを歩く人々の足取りは様々だ。急ぐ者、ゆっくり歩く者。その光景を目にして、私は自分の歩み方を意識的に選択する。
忙しさの中にあっても、自分のペースを保つこと。それは簡単ではないが、不可能でもない。日々の小さな選択の積み重ねが、やがて大きな変化をもたらす。その認識と共に、私は新たな一日を歩み始める。ロンドンの街並みが、無限の可能性を秘めた量子の海のように、私の前に広がっていく。
Atogaki
ランニングにおいて、キツい状況は変わらないが、もう無理だと諦めるのはあくまでも個人の選択だ、みたいなことを村上春樹が本で話していた。それに近い話で、忙しいという環境は変わらなくても、その中での過ごし方は己の選択に委ねられていると思う。忙しいから忙殺されるのではなく、忙殺されてるような過ごし方をするから忙殺されるのだ。そう心得て、最近を過ごすようにしている。
都築怜
元記事URL: https://note.com/reitsuzuki/n/n59587533348d 公開日: 2024-09-11 18:00
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