忙殺
忙殺
目覚めると、窓から差し込む柔らかな光が部屋を満たしていた。時計を見る。7時32分。いつもより1時間以上遅い。慌てて起き上がろうとしたその瞬間、体が重く感じられた。昨夜までの激務の名残だろうか。
深呼吸をして、ゆっくりとベッドから這い出す。カーテンを開けると、アーンドル・スクエアの緑がまぶしく目に飛び込んできた。普段なら、この光景を楽しむ余裕もあったのだが。
「今日こそは早めに帰ろう」
そう呟きながらも、胸の奥で違和感が渦巻いているのを感じる。この数週間、同じ言葉を繰り返してきたが、結局のところ深夜まで仕事に追われる日々が続いていた。
シャワーを浴びながら、頭の中で今日のスケジュールを整理する。会議、締め切り、クライアントとの打ち合わせ。そして夜は…。ふと、Aliceとの約束を思い出した。今夜、彼女と「The Queen’s Fox」で一杯どうかと誘われていたのだ。
「やばい、すっかり忘れてた」
慌ててメッセージを送る。「ごめん、今日は難しそうだ。仕事が…」途中で指が止まる。これで何度目だろう。Aliceとの約束をキャンセルするのは。
髭を剃りながら、鏡に映る自分の顔をじっと見つめる。目の下のクマが気になる。疲れが溜まっているのか、それとも…。
「本当にこれでいいのか?」
その問いが、突如として心の奥底から湧き上がってきた。忙しさに紛れて見えなくなっていた何かが、今、鏡の中の自分を通して語りかけてくるようだった。
深く息を吐き出し、もう一度メッセージを見る。送信ボタンは押されていない。削除して、新しく打ち始める。
「今夜、必ず行くよ。楽しみにしている」
送信ボタンを押す。その瞬間、胸の中で何かが軽くなったような気がした。
急いで服を着て、外に出る。いつもより遅い出勤だが、不思議と焦りは感じない。むしろ、久しぶりに街の空気を肌で感じている自分に気づく。
ポートベロー・ロードを歩きながら、ふと立ち止まる。古書店「Portobello Books」の前だ。ショーウィンドウに並ぶ本の背表紙を眺めていると、一冊の本が目に留まった。村上春樹の「海辺のカフカ」英訳版。Aliceが読んでいた本だ。
思わず店に入り、その本を手に取る。
「これください」
レジで支払いを済ませ、本を抱えて外に出る。遅刻は確実だが、どこか心が晴れやかになっていた。
仕事は忙しい。でも、それだけが人生じゃない。
今夜、Aliceに会ったら、この本のことを話そう。そして、最近の自分のことも。
ノッティングヒル・ゲート駅に向かいながら、久しぶりに空を見上げた。雲一つない青空が広がっていた。
Atogaki
とてつもなくしごとがいそがしい。
都築怜
元記事URL: https://note.com/reitsuzuki/n/n65a160ed94d0 公開日: 2024-08-29 22:38
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