「控え目にブランドタグが見えるのが素敵」とか言ってるのが一番ダサい。

「控え目にブランドタグが見えるのが素敵」とか言ってるのが一番ダサい。

ブランドで物を買うことはダサいことじゃない。

ブランドで物を判断することは決してダサいことではない。

そもそも、ブランドとは本質的に「こだわりに対する信用」のことである。

そして、ブランドで物を選んで購入することは本質的には以下2つの条件を十分に満たすことだ。

“こだわり”と”自分の美学”との相性判定

こだわっていることへの信頼度

こう考えれば、ブランドで物を選ぶことはむしろ至極真っ当な考え方と言っていい。

補足として、「ブランド」を「人」として読み替えてみると、直感的にも腑に落ちるものがあると思う。

自分と馬が合う人だと思う

それを本当だと信じることができる

だから、その人と友達になろうとする。これ以上「当たり前」の話があるだろうか。

強調したいのは、上記のロジックに基づいているのであれば、「ブランドで物を買う行為」はダサくない(、むしろ至極真っ当である)、ということだ。

ブランドを語ることはダサいことじゃない。

着ている服のブランドを語ることは決してダサいことではない。

本質的に、着ている服のブランドを語ることは「自己主張」だ。

要するに、買って着ているのであれば、自分の美学とのすり合わせが完了しているわけで、その意味で、ブランドの表明は自分の美学観の表明と言い換えることができる。

僕が知るプロの服屋さんは、服を語るときにまず、そのブランドを説明することが多いが、そこには常に物に対する考え方を滲ませたいいとを感じるのだ。

ちなみに、ダサいブランドの語り方も存在する。

それは、先ほどの「自己主張としてのブランド紹介」ではなく、「ブランド紹介のためのブランド紹介」になっているケースだ。別に、語り方を注意せよ、というテクニック論を語りたいわけではない。

本音の置き所、本心の感じている箇所が違うのであれば、出てくる言葉がどう変わろうとも本質的には何も変わっていないから。

ブランド名を着ることはダサいことじゃない。

ブランド名が大きくプリントされた服を着ることは決してダサいことじゃない。

本質的に、ブランド名を着ることは「その哲学を信奉していることの表れ」である。簡単にいえば、「ファンであることを公言したくなる心理」として、ブランド名を着ることは認められるべきだ。

例えば僕は先日、「オードリーオールナイトニッポンin東京ドーム」のTシャツを購入した。 これは僕なりの自己表現だ。僕は、オードリーのオールナイトニッポンのファンであり、それを公言したいのだ。自分がファンであることを自分で確かめたくて、購入するのだ。

全く同じように、GUCCIのデザイナーが最高に好きなのであれば、GUCCIのTシャツを着たら良いと思う。バンドTシャツのような物だろう。

あるいは、本当にデザインが美しいと共感した場合も考えられる。

GUCCI、という丸文字多めの文字列に、アール・ヌーヴォーを感じるとか言って、購入するケースは確かにあるかもしれない。

ただ、デザインの世界は非常に難しいと思う。圧倒的な推敲の上、そのデザインの美しさを見出す過程にあるのは、物と孤独な対話だ。アートだ。

「控え目にブランドが入っているのが素敵」とか言ってるのが一番ダサい。

結論、「控え目にブランドが入ってるのが素敵」とか言う人間が一番ダサいのである。

まず、こういう人にとってブランドとは、「ブランドのためのブランド」でしかなく、その捉え方がそもそも本質的ではない。 先ほど例にも挙げた「品のない着方をしている人」と同じような文脈でブランドを捉えている。

にも関わらず、実際に品のない着方をしている人を、「品のない着方をしている」と牽制している。最も恥ずべき姿勢と言わざるを得ない。


元記事URL: https://note.com/reitsuzuki/n/nbc4935c2629b 公開日: 2023-12-19 18:00

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