文章が上手くなりたい、という感情。
文章が上手くなりたい、という感情。
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「文章が上手くなりたい」という強い欲望を抱くようになった。
言ってしまえば画力を高めたい、みたいなものなのだろう。
欲望は泉。気付いたら沸いているものだが、この欲望は違った。自分が書いている文章はエッセイというものだったんだ、という気づきを得た瞬間に吹き上がった大きな水柱であった。
こうして僕にとって「文章を書くこと」は、手段および目的になった。例えば、文章を書くこととはどういうことか、を考えるようになった。
僕は、文章を書くうえで何よりも「正確性」が大事だと考えるようになった。なお、正確性とは、数式で説明するとか、行間で語らないとか、そういうことではない。「自分が思っていること・感じていること・考えていること」に対する正確性だ。そのためにどうするべきか。まずは「自分の言葉・文体」を獲得していく必要がある。
そのための過程として、僕の中で気をつけていることがある。
それが、一般的な表現を使わないこと、である。
例えば、「良い」と書かれた文章をみたとき、それがどう良いのかまるでわからない。書いた当の本人は、その言葉に乗っている自分の体温や感情を明確に理解している、が、それを書かないでどうする?
人には伝わらない。ましてや、時間が経てば自分でも理解ができなかったりするのだ。自分の繊細な感覚や感性は、時が経てば想像以上に呆気なく消えているもの。
あとは、”知識”で語らないことも重要だ。「肩で風を切るように」というような言葉を使ってはならない。その瞬間に、オリジナルを見つめることを諦めてしまっている。その人がどのように歩いているのか、もっと微細を見つめ、その人ならでは様子や感情が伝わってくるような表現を探すべきである。
こうして、自分の文体・言葉で世界を描ききったとき、文章はアートになる。
世界にはどれひとつとして、同じ写真はない。
文章も写真のようなものだ。何をどう映すか考える。
そうして「今」を捕える。
生きたくて、確かめたくて、書くのだ。
元記事URL: https://note.com/reitsuzuki/n/nc72762189f42 公開日: 2023-10-26 18:00
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