映画館
映画館
夏の日差しが降り注ぐロンドンの午後、私はいつものように「The Rosemary Garden」のテラス席に腰を下ろしていた。コーヒーの香りと人々の笑い声が風に乗って漂う中、ふと手元のスマートフォンに目をやる。画面には未読のメッセージが点滅している。開くべきか、それとも今この瞬間を大切にすべきか。その一瞬の躊躇いに、自分の中の何かが揺れるのを感じた。
カフェの前を行き交う人々を眺めながら、私は考える。彼らも皆、同じように日々の選択に迷い、その瞬間瞬間を生きているのだろうか。ロンドンに来てから、こうして人々の姿を観察する習慣がついた。それは単なる好奇心というより、自分自身を見つめ直す鏡のようなものだった。
ふと、隣のテーブルで新聞を読む老紳士の視線を感じ、思わず会釈を返す。彼の澄んだ瞳に映る自分の姿に、どこか安堵を覚える。この街で過ごす日々は、まるで映画のワンシーンのよう。主人公は私自身なのに、時として傍観者のように感じることがある。
コーヒーを一口飲み、その苦みと香りに意識を集中させる。舌の上で広がる複雑な味わいは、今この瞬間の自分の内面を表しているかのようだ。苦さと甘さ、酸味と深み。相反する感覚が混ざり合い、ひとつの調和を生み出している。
ペンを取り、ノートに向かう。書くという行為は、私にとって思考を整理する手段であると同時に、創造の源でもある。言葉が紡ぎ出される瞬間、それはまるで量子の世界のよう。無限の可能性が、一つの現実として定着する。そして、その一文字一文字が、私という存在を形作っていく。
周りの喧噪が遠のき、ペンの走る音だけが聞こえる。時間の流れが歪み、過去と未来が現在に収束する。この瞬間、私はロンドンにいながら、同時に東京の雑踏の中にもいる。幼少期の記憶が蘇り、まだ見ぬ未来の自分とも対話している。
書きながら、ふと気づく。私たちは常に選択の連続の中で生きている。メッセージを開くか開かないか。コーヒーを飲むか飲まないか。ペンを走らせるか止めるか。それらの一つ一つが、無限に分岐する可能性の中から、唯一の現実を紡ぎ出している。
そして、その選択の連続こそが、私という存在を形作っているのだと。この認識は、重力のように私を引き寄せると同時に、羽のように軽やかな解放感をもたらす。
ペンを置き、深呼吸をする。カフェの喧噪が再び耳に入ってくる。隣の老紳士はもういない。代わりに若いカップルが座り、静かに会話を楽しんでいる。彼らの姿に、かつての自分を重ね合わせる。
空を見上げれば、雲が風に流されていく。その形は刻一刻と変化し、それでいて空そのものは変わらない。私たちの存在も、そんな空や雲に似ているのかもしれない。常に変化し続けながら、本質的には変わらないものがある。
再びスマートフォンに目をやる。未読のメッセージはまだそこにある。しかし、今の私には重要なのは、それを開くか開かないかではなく、この瞬間を十全に生きることだと分かっている。
コーヒーカップを持ち上げ、最後の一口を味わう。苦みと甘みが混ざり合い、味わい深い余韻を残す。この瞬間、私はここにいる。ロンドンの片隅で、世界の中心で、自分自身の内面で。そして、それだけで十分なのだと、心から感じている。
Atogaki
最近、足繁く映画館に通っている。映画館は良い。映画を見ている間、映画を見る以外のことをしないから。日常、NetflixやAmazonPrimeで映像作品を見ていると、そうはいかない。何かを思いつけば、すぐさまGoogleで検索してしまうし、連絡が来れば返してしまう。映画というものに完全に集中していないのだ。よくこのことについて、「最近の人間は1つのものとじっくり向き合うことができない」なんていうような何かが下落したような表現で嘆かれることがあるが、僕はそうは思わない。誰しもが、今のデジタル環境に置かれたらそうなってしまうのはしょうがないことだと思う。だからこそ、今の映画館に価値があると思うのだ。
都築怜
元記事URL: https://note.com/reitsuzuki/n/nde453c21c60e 公開日: 2024-08-23 11:00
This line appears after every note.
Notes mentioning this note
There are no notes linking to this note.