止まった針の下で
止まった針の下で
朝の電車の中で、吊り革に手を伸ばした瞬間、不意にその事実に気がついた。左手首で息を潜めているクオーツの時計が、見知らぬ時刻を指したまま、深い眠りについている。針が動きを失ってから、もう二週間が過ぎようとしていた。それなのに私は、まるで冬眠する小動物をそっと包み込むように、毎朝その時計を手首に巻きつけ、オフィスへと向かっていた。少し立ち止まって考えれば、動かない時計を身につけることの不条理に気づくはずなのに。あるいは、その不条理さこそが、今の私にとって必要な真実だったのかもしれない。時計が刻まなくなった時間の中に、かえって見えてくる何かがあるように思えて。
吊り革に手を伸ばすたびに、微かな羞恥に似た感覚が胸の奥を掠める。それは、装丁を失った詩集のように、あるいは調律の狂ったピアノのように、左腕から決定的な何かが欠落しているような感覚だ。しかし、不思議なことに、この偽りの時を刻む時計との密やかな共犯関係の方が、むしろ心地よく感じられた。まるで額縁から外された絵画のような、あるいは蝶の標本から蝶だけが消えたような、何も纏わない左腕で電車に揺られることへの違和感は、想像以上に深いものだった。その欠落感は、時として存在そのものの確かさを問いかけてくるような、奇妙な重みを持っている。まるで、在ることと無いことの境界線上で、かすかに震える何かのように。
窓に映る自分の姿が、揺れる車両の動きに合わせてぼんやりと揺らめいている。その不確かな像を見つめながら、この奇妙な違和感の正体について考えを巡らせる。私たちがモノと紡ぐ長い関係性は、「愛着」と呼ぶべきものなのか、それとも「執着」と呼ぶべきものなのか。その言葉の選択一つで、関係の本質が微妙に、しかし確実に揺らぐ。愛着には春の陽だまりのような温もりが宿り、深い森の苔のような柔らかさがある。一方の執着には、真冬の氷柱のような冷たい固さと、深夜の月明かりのような凛とした美しさがある。しかし、どちらも同じように、対象との距離の近さを表している。その差異は、おそらく、関係を見つめる視線の温度に宿っているのだ。時として、その温度差が、存在と非存在の境界線を曖昧にしていく。それは、古い写真が持つ不思議な魔力に似ている。写真の中の風景は、確かにそこに在りながら、もはやどこにも無い。その二重性が、私たちの心に深い余韻を残す。
基本的に、一つのモノと長く付き合うことには、深い意味がある。それは、ただの物質的な継続性を超えた、存在との静かな対話の積み重ねだ。日々の些細な接触が、いつしか理解となり、愛情となり、時には執着となっていく。その過程は、海辺の小石が波に磨かれていくように、あるいは古い着物が光に褪せていくように、緩やかで必然的なものに思える。ただし、その関係性は常にストイックでなければならず、同時にどこかクールでいなければならない。それは、凍てつく夜空に輝く星々のような、遠くて冷たいけれど、確かな光を放つような関係性。触れられないからこそ、永遠に憧れを抱き続けられる、そんな距離感が理想なのかもしれない。その意味で、モノとの関係は、常に「まだ見ぬ何か」への憧れを内包している。それは、禅画の余白が暗示する無限の可能性のように、存在しないことの中に見出される豊かさなのかもしれない。
なぜなら、モノとの関係に妥協は許されないからだ。それは、人が生涯の伴侶に求める真摯さに通じている。私自身は未婚だが、想像するに、それは相手の存在を完全に受け入れつつ、なお自分の核心を保ち続けるような、繊細な均衡の上に成り立つものなのだろう。骨董品を扱う時のような、その緊張感のある慎重さと、古い友人と話す時のような温かな親密さが、同時に存在する関係。それは、茶道の心得のように、形式の中に自由を見出し、制約の中に無限を感じる、そんな逆説的な関係性なのかもしれない。時として、その緊張関係そのものが、モノの存在価値を静かに照らし出す。それは、月光が闇を浮かび上がらせるように、あるいは静寂が音楽を際立たせるように、対比の中に見出される本質なのだろう。
しかし同時に、別れるときはスッと別れられるような覚悟も必要だ。映画『007』でダニエル・クレイグが、死んだばかりの協力者をゴミ箱に投げ入れるような、あの冷徹さを持って。一見すると非情に映るその態度は、しかし、プロフェッショナルな関係性の一つの到達点を示している。深く関わりながら、決定的な瞬間には客観的な判断ができる。その矛盾した態度にこそ、成熟した関係性の本質が宿っている。それは、能面の表情のように、静止の中に無限の感情を秘めた、そんな関係性だ。あるいは、禅画の余白のように、何もないところにこそ、すべてが存在するような関係性。そこには、存在することの豊かさと、失われることの美しさが、不思議な均衡を保っている。
私たちは誰しも、いつか大切なモノと別れなければならない時を迎える。そのときに「意外と長かったな」と、どこか懐かしさを帯びた声でつぶやけるような、適度な距離感を保っていたい。それは、モノとの関係における理想的な距離感であり、同時に人との関係においても響き合う真実なのかもしれない。氷のように透明で、しかし確かな温もりを伴う、そんな関係の在り方。まるで、古い写真を眺めるときのような、懐かしさと新鮮さが同居する感覚。その二重性の中にこそ、関係の本質が潜んでいるのかもしれない。それは、雪が積もる音のように、存在と非存在の境界で生まれる、かすかだが確かな何か。
電車がホームに滑り込み、私は再び吊り革から手を離す。動きを止めた時計の文字盤が、斜めから差し込む朝日に照らされて、かすかな輝きを放った。光の具合で、まるで針が僅かに、しかし確かに動いたようにも見えた。この時計との関係も、いつか必ず終わりを迎えるのだろう。しかし、その時が来るまでは、この静かな共犯関係を、もう少しだけ続けてみようと思う。時計の針は確かに止まったままだが、そこには、物理的な時間とは異なる何か、もっと深い何か、言葉では捉えきれない確かな存在が、確実に刻まれているような気がした。それは、おそらく、存在することと、存在しないことの間に垣間見える、かすかな永遠の光なのかもしれない。あるいは、時を越えて響く、静かな鐘の音のような何か。
窓の外では、新しい朝の光が、目覚めたての街を優しく照らし始めていた。その光は、止まった針の上で静かに瞬き、時間とは異なる永遠の一瞬を映し出しているようだった。まるで、この世界のすべての「在る」と「無い」が、そこで密やかな対話を交わしているかのように。その対話の中に、私たちの存在も、モノとの関係も、すべてが溶け込んでいく。そして気がつけば、止まった針の下で、新たな時間が静かに流れ始めていた。
気づいたときにはクオーツの時計が違う時刻をさしたまま止まっていた。それから2週間くらい、なぜか普段通り腕に巻き付けて仕事に行っていた。外出するに相応しくないと思ってしまうほどの左腕の喪失感が堪らなく、吊り革に捕まるときに妙な恥じらいを覚えることになっても、あの装丁感のない左腕で出社するよりはマシだと考えていた。そこで考えたのが、モノとの長い関係のことを「愛着」と呼ぼうか、はたまた「執着」と呼ぼうか、ということ。基本的に、1つのモノと長く付き合うことは良いことである。ただ、関係性はストイックかつクールでいたいと思った。それは、1つとして、モノに妥協があってはならないということ。自分との関係を真剣に考える意味では、結婚のようなモノだろう、したことないけど。あとは、ダニエルクレイグが死んだばかりの自分への協力者をゴミ箱に投げ捨てるが如く、離れるときはスッと離れるということだ。それには磨かれた覚悟が必要であろう。いつか、モノと離れなければならないときは来る、大事なのはいざそのときになって、「意外と長かったな」と言えるくらいのモノとの距離感でいたいということだ。
都築怜
元記事URL: https://note.com/reitsuzuki/n/n39ac3d2e2b77 公開日: 2025-01-20 18:00
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