「経典」という窓から見える世界
「経典」という窓から見える世界
夕暮れの書斎で、手塚治虫の『ブッダ』の最後のページを閉じる。古い革張りの椅子がかすかにきしむ音が、深い思索の余韻のように響く。窓の外では、茜色の光が徐々に紺碧へと溶けていき、その移ろいは一瞬一瞬が異なる色彩を帯びている。ガラス越しに映る自分の姿も、光の変容とともにゆっくりと輪郭を変え、まるで固定された「私」という存在が、静かに解体されていくかのようだ。
その姿の溶解は、今この瞬間、私の内側で起こっている変容の正確な比喩なのかもしれない。読み終えた今、確かに世界が違って見えている。というより、世界を見る自分の「窓」そのものが、少しずつ形を変えていく過程の只中にいる。それは、一つの視点から別の視点への単純な移行ではない。むしろ、視点というものの本質そのものが、静かに問い直されているような感覚だ。
宗教という言葉は、私たちの意識の中に多層的な像を結ぶ。表層には壮麗な建築物の尖塔が空を指し、厳格な戒律が石の壁のように立ちはだかる。しかし、それらの具象的なイメージの向こう側には、より本質的な何かが息づいている。私は意識的に、それらの具象を周縁へと退かせることにしている。まるで、万華鏡を覗くように視点を少しずつずらしながら、その奥に広がる「ものの考え方」という見えない風景の輪郭を探っているのだ。
それは時として、霧の中を歩むような体験となる。確かな手応えを感じながらも、その実体を完全に掴みきることはできない。しかし、そのもどかしさこそが、思考を深める契機となる。私たちは往々にして、明確に見えるものだけを「現実」と呼びがちだ。だが、もしかすると本当の現実は、そうした明晰さの向こう側で、常に新たな形を取りながら生成され続けているのかもしれない。
それは、まるで異なる時代の窓から世界を眺めるような体験だ。それぞれの窓は、その時代特有の形と素材を持っている。中世の小さな窓は、世界を断片的に切り取り、その限られた視界の中に無限を見出そうとする。現代の大きなガラス窓は、パノラマのような視界を提供しながら、同時に見る者と世界との間に透明な壁を設ける。見慣れた景色の中に、これまで気づかなかった色彩や形が浮かび上がってくる。時には、窓枠そのものが違う形をしていて、その形が景色の見え方を決定的に変えてしまうことに気づく。
円窓からの眺めと、縦長の窓からの眺めは、同じ風景でありながら、まったく異なる物語を語りかけてくる。それは単なる視点の違いではない。むしろ、「見る」という行為そのものの本質を問い直すような体験となる。「経典」という窓を通して、私たちは異なる時代、異なる文化の中で紡がれてきた思考の軌跡を垣間見ることができる。それは単なる過去の記録ではなく、今この瞬間も生き続ける、人間の思考の可能性の証なのだ。そこには、時間という制約を超えて、思考が思考を呼び覚ます永遠の対話が刻まれている。その視点の移動こそが、自分の中にある「当たり前」という枠組みを、初めて輪郭として浮かび上がらせるのだ。
興味深いのは、この「当たり前」の自覚が、必ずしも否定や拒絶を意味しないということだ。むしろ、それは自分の立ち位置を知るための、貴重な座標軸となる。例えば、ヒンドウー教の経典を読むとき、私たちは輪廻という世界観に出会う。それは現代の科学的思考とは異なる軸を持つが、だからこそ、私たちの「生と死」についての考え方が、どのような前提の上に成り立っているのかを照らし出してくれる。そこには、時間を直線として捉える見方と、円環として捉える見方の対比が生まれ、その対比自体が、私たちの思考の可能性を広げてくれる。
私が特に源流的な宗教に関心を持つのは、そこに人間の思考の原型とでもいうべきものが見出せるからだ。それは古い井戸を覗き込むような体験である。深い闇の中に、かすかに水面が光っている。その水面に映るのは、人類が初めて「存在」という謎に出会ったときの表情なのかもしれない。
例えば、ユダヤ教の経典には、一神教的世界観の始原的な形が刻まれている。それは単なる「古い」という意味ではない。むしろ、人間が初めて「唯一」という眩暈のような概念に出会い、それを通じて世界を理解しようとした瞬間が封じ込められているのだ。その瞬間には、多神教から一神教への転換という、思考様式の根本的な変容が含まれている。まるで、散りばめられた無数の光点が、突如として一つの強烈な光源へと収束していくような。そこには、人間が世界をどのように理解し、どのように意味づけようとしてきたかという、根源的な問いかけの痕跡が、化石のように残されているのだ。
しかし同時に、私は「組織」と「経典」を意識的に切り分けている。これは単純な二分法ではない。むしろ、「信じること」の本質により深く迫るための、思考上の装置だ。ある行動の背後にある信念、その信念を育んだ教え、そしてその教えが生まれた文脈 ─ このような層構造を持った理解は、地層のように幾重にも重なった時間の痕跡を読み解くことに似ている。その読解の先に、宗教という現象の本質に近づく道が開かれているのかもしれない。
夜が更けていく。書斎の灯りに照らされた『ブッダ』の背表紙が、静かな存在感を放っている。手塚治虫は漫画という特別な窓を通して、仏教思想の深遠な世界を私たちに開いてみせた。それは紺碧の闇の中に、新たな光を灯すようなものだった。その光は、時として稲妻のように鋭く私たちの認識を切り裂き、また時として夜明けのように優しく意識を温める。そして時に、その光は私たち自身の影を、思いがけない角度から浮かび上がらせる。
様々な経典もまた、それぞれが独自の窓として機能する。それらの窓を通して見える景色は、必ずしも調和的なものばかりではない。時に矛盾し、時に衝突する世界観の数々。しかし、その多様性こそが、人間の思考の豊かさを物語っているのではないだろうか。ちょうど夕暮れの空が、無数の色彩を内包しているように。それぞれの色が互いを際立たせ、そして時にはその境界さえも曖昧にしながら、より深い色彩の真実を語りかけてくる。
結局のところ、私たちは皆、自分なりの窓を通して世界を見ている。その窓の形や位置を知ること、そして時には別の窓から景色を眺めてみること。それは、より深い理解への第一歩となるのかもしれない。しかし、真の理解とは、おそらく単一の窓からの完璧な眺めを得ることではない。むしろ、無数の窓を通して得られる断片的な眺めが、私たちの内側で不思議な調和を奏で始めること。そこにこそ、「知る」ということの本質が隠されているのではないだろうか。
夜の静けさの中で、書斎の窓に映る自分の姿が、かつてないほど鮮明に、そして同時に不思議なほど透明に見えた。その二重性の中に、新たな理解の可能性が開かれている。それは決して固定されることのない、揺らぎながら深まっていく認識の形として。窓の外で、夜空の星々が静かに瞬いている。それはまるで、人類の思考の歴史が、無数の光点となって私たちを見守っているかのようだ。
手塚治虫の「ブッダ」を読んでから、宗教について興味を持っている。いや、逆か?まぁいいが、僕にとって宗教とはさっくりと「ものの考え方」であり、「ものの考え方」は多くを知るほど良い。なぜならば、他を知ることで自分のなかにある「当たり前」を初めて自覚できるから。その意味で、僕は宗教の「経典」にのみ興味がある。ここで僕は意識的に、「組織」と「経典」を切り分けることにしている。何をしているか、ではなく、何を信じているのか、にフォーカスするということだ。例えば、現に日本の法を犯した宗教は確かに存在する。僕は、やった行動を評価したいのではない。その動機、何を信じてその行動をしたのか、更に言えば、「どんな教えがあって、そう信じる人間が生まれたのか」に強い興味を注いでいる。なるべく多く知りたいと思うが、とりいそぎ、僕がまず気になっているのはオリジンなもの。源流に位置しているような、ヒンドゥー教やユダヤ教といったものだ。
都築怜
元記事URL: https://note.com/reitsuzuki/n/n03512d85f493 公開日: 2025-01-13 18:00
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