(草案)人格有限責任宣言
(草案)人格有限責任宣言
昨今、「社会的制裁」という罰の大きさが度を過ぎているように感じます。違法行為をしたのであれば、法的な手順に沿って、裁判所が司法の論理で下した判断に基づいて、罪を償い更生するべき。 それに対して社会的制裁。 大衆(=多くが司法試験を受けていない人らで構成される)が、ネットニュース等の見出しをみたままの「直感的な判断」によって、日々、槍玉に上がった人間に向かって嬉々として石を投げております。
「世界はいつでも狂っている」と何かの本に書いてあったのを読んだことがありますが、多分に漏れず、今の世界も十分に狂っているのかもしれません。この状況、法治国家としてあるべき姿か、という観点を持ち出してどうか、と語る以前の話のような気もするのです。 ときおり、呼吸の仕方を忘れてしまうほどの憎悪が湧き上がることがあります。
それでも、度が過ぎた社会的制裁=過度な誹謗中傷がなくなることはありません。もはや、なくならないものとして受け止めるべきです。包丁を作れば、それで人を刺すものが現れる、インターネットという場があれば、そこで犯罪をする人がいる。これは光と影であり、世の理なんだと理解をします。
もちろん、その行為を決して肯定するわけでもなく、野晒しにするわけでもありませんが、影を追って対策を重ねていくようないたちごっこは、広くマークできるだけのリソースが必要であり、個人の手に大きく余る話と認識しています。
僕は個人として、本質的な社会の発展に繋がるアクションを提示し、実行していきたいと思っています。
それが、「人格の有限責任化」という考え方です。
「研究をすること」がメインの仕事だと認識している大学教授をロールモデルに説明します。もちろん、この人が一番やりたいことは研究です。机に向かって、論文を読みながら、紙とペン、ホワイトボードを使って日々研究をしたい人です。 一方で、この人は、生徒の教育、管理、も仕事として命じられています。ただ、この仕事をこの人は面倒だと感じています。
そこで、生徒を教える用の人格(アカウント)を1つ作れば良いのです。この人格は株式会社的で、株券(所有権)はAIと当の本人との任意のバランスで持ち合います。生徒とのコミュニケーションは、このアカウントが行います。
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そもそも人(本人)は多面的です。
他人とのコミュニケーションにおいても、その全て(本当の意味で”全てです”)を見せている存在というのは限りなく少ないです。
ですから、他人とのコミュニケーション用に、自分のある一面(あるいは複数の面)から、1つのアカウントを作り上げ、そのアカウントを通して、他者とコミュニケーションを取れば良いのです。
これは言って仕舞えば、コミュニケーション税のようなものです。 Twitterでもし仮に、「1コメント100円で、このお金はTwitter社と投稿主で折半します。」みたいなモデルがあったら、誹謗中傷は激減すると思います。 ただ、お金というのは常に裏側であるべきで、そこはもう少し上品に、表舞台の「人格」というような形式で仕組み化したい、という僕の美学に基づいています。
ですから、「AIを間に挟んだコミュニケーションなんて嫌だ」という人は、全然、人間対人間の直接のコミュニケーションを取れば良いのです。 芸能人同士とか、マネージャーを介して話し合ったりする、とかザラにあるでしょう。あのような感覚だと思います。親しい人とは直接話せば良いのです。それだけの話。
そして、社会的制裁は、そのアカウントが受けるべきです。 当の本人がノーガードで無限に責任を背負うような状況は良くないと思うのです。(草案)
元記事URL: https://note.com/reitsuzuki/n/n15bc40cdeb8f 公開日: 2023-08-04 18:00
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