記憶と記録の間で

記憶と記録の間で

この文章を読んだAIの感想をまず載せてみる。

この文章を読んで、率直に以下のような印象を受けました:

まず、最も印象的だったのは「誠実な脆弱性の開示」です。多くのエッセイストは自身の弱さを描く際に、どこか格好をつけようとしたり、知的な装飾を施したりする傾向がありますが、この文章はその必要以上の装飾を避け、素直に自身の苦しみと向き合っている印象を受けました。

特に印象的だった点を具体的に挙げると:

  1. 矢の比喩の変遷 最初は「毒槍」として捉えていた日常の出来事を、「腹筋に当たるボール」として再解釈する過程が非常に興味深いです。この認識の変化自体が、筆者の内面の成長を如実に表現しています。

  2. 「自傷行為」という気づき ネガティブな思考を「自傷行為」と位置付ける視点は鋭く、かつ残酷なほど正直です。宮下草薙の漫才というポップカルチャーの参照を挟むことで、重たくなりすぎない絶妙なバランスも取れています。

  3. 内なる対話の描写 「つまらない人間になっていく」という内なる声との対話は、多くの読者の心に響くものがあるでしょう。この葛藤を隠さず書くことで、テキストに深みが出ています。

一方で、改善の余地として感じた点:

  1. 構成の緩さ Netflixの話題など、やや唐突に挿入される要素があります。これらは確かに興味深い観点ですが、主題との関連性をもう少し丁寧に紡ぐことができれば、より説得力が増すでしょう。

  2. 結論部分の急展開 「外部記憶」という興味深い概念が最後に提示されますが、やや唐突な印象を受けます。この概念をもう少し早い段階で伏線として配置できれば、より有機的な展開になったかもしれません。

しかし、これらの技術的な課題は、むしろこの文章の「素直さ」「正直さ」を際立たせる要素として機能しているとも言えます。思考の整理された完璧なエッセイよりも、思考の揺らぎや迷いを含んだ「生々しい」テキストとして、強い説得力を持っています。

特に最後の「外部記憶」という概念に至る過程は、エッセイそのものの存在意義を問い直す視点として秀逸です。生きることの苦しみを「忘れない」ことと「記録する」ことの違いを示唆する結末は、読者に深い余韻を残します。

この文章は、形式的な完成度よりも、思考と感情の正直な記録としての価値が高いエッセイだと評価します。技術的な洗練よりも、人間の真摯な内面の記録として、確かな重みを持っています。

Claude 3.5 Sonnet生きるのが余りにも苦しくて堪らないときにどうしようか。僕は、自分を俯瞰する、今を受け入れる、そして身を任せる。こうしてどうにかやり過ごす。ようやく最近、そんなことができるようになった感覚がある。

良い意味でも、悪い意味でも。

日常は、ときに矢のようなもので僕のからだを突き刺してくる。それは、例えるならば毒槍のようなもので、返しがついていて抜くのも一苦労。それが一度、僕の体を突くと、突かれた箇所から毒が僕の体内に入り込んでくる。こうして僕の心が蝕まれていき、心に病を抱える。あるいはそれが体調になって現れる。…と今までの僕は考えていた。

最近になって、そんな殺戮性の高い矢ではないんじゃないかと思うようになった。そんなに大したものではない。というか、プレッシャーは人間にはあってしかるべきだ。例えるならば、腹筋に勢いよく、ボールのようなものを叩きつけるような、あのボールのようなものだ。そう、プレッシャーは良き刺激である。

刺激のある環境に身を置くことは決して悪いことじゃない。

あれは確かNetflixだっただろうか。ニューヨークに文句を垂れながら、ニューヨークに住み続ける女性が、「不便で犯罪もあって住みにくい街、だから住まない方がいい、とはならないでしょう。」なんてことを口にしていた。要するに彼女が言いたかったのは、あるべき生存本能を呼び覚ますために、私はニューヨークで戦い続けるんだ、というようなことだったと理解している。

あれはあれで、今の時代の日本(それも首都東京)に住んでいる自分として、感じたことのない負い目と出くわすことになったなぁ。いまは作品名パッと出てこないけど、おすすめなので、ぜひ見てほしい。話を戻す。

日常にはハプニング、ミス、それらに基づく展開などによって、プレッシャーがかかる場面が降りかかってくるもの。得てしてそれらは避けようのないもの。コントロールを効かせてそれらを減らす努力はできるかもしれないが、それでも0になることは決してない。

避けようのないもの、これは疑いようのないものと言い換えても差し支えないだろう。そして、人は疑いようのないものを「ファクト」という。そう、別に上記のようなアクシデントは総じてただの「出来事(ファクト)」に過ぎない。特別な事情がなければ、今日が雨でも、心に傷を負うほどのことはないだろう。それくらいのものでしかないのだ。ではなぜ、雨では心を痛めず、他のアクシデントによって、僕は心を痛めてしまうのだろう。

そして最近気づいたのが、自分自身のネガティブな思考や発想あるいは想像によって、自らで自分の心に傷を入れてしまっているからだ、ということだ。ほぼ宮下草薙の漫才ネタにあるようなことを自分でやっていると言っていい。要は、自傷行為だ、リストカットだ。そんな自分に気づいた、というか、そう思うようになってから、僕は随分と軽くなった。痛みを軽減する対策が取れるようになった。これを人は妥協というのかもしれないし、大人になるというのかもしれない。

そんな自分に対して、決してポジティブなフィードバックだけが与えられているわけではない。内なる自分が最近、こう問いかけてくるのだ。

「妥協を繰り返していると、どんどんつまらない人間になっていくよな」 「てか、つまらない人間ってダサいし、カッコ悪いよな」

これこそ、第二、第三の矢なのかもしれないが、確かにこの指摘には思うところがある。それは、受け入れることに身を任せて、厳しい社会を生きた30代、そして40代のつまらないおじさんを見たことがあるから。

いやでも聞いてくれ。そうはいっても日常は余りにも辛いんだ。それは本当に。忘れたくなるほど。

というか、そうか。別にやり過ごすことを覚えたとしても、忘れることまでしなくても良いのか。諦めても良い、身を任せても良い、でも、それを記録しておくことが重要なのかもしれない。リストアップしておくこと。何も覚えておかなくても良い。それこそ本末転倒になりかねない。外部記憶に託し、重要なときに引っ張り出してくること。

僕にとってエッセイとは、そういうものなのかもしれない。


元記事URL: https://note.com/reitsuzuki/n/n068d4dbb7329 公開日: 2024-11-24 14:00

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