読書とは筋トレではなくストレッチである。

読書とは筋トレではなくストレッチである。

夕暮れ時、窓辺の柔らかな光の中で本を開く。ページをめくる音が、静かな空気をわずかに揺らす。そこには確かに、何かが起ころうとしている予感がある。

私たちは往々にして、読書を「頭の筋トレ」のように捉えがちだ。知識を詰め込み、思考を鍛え、より賢くなるための手段として。しかし、それは本来の姿からは少し外れているのかもしれない。むしろ読書とは、こわばった心身をほぐしていく、繊細なストレッチに近い。

例えば、長時間デスクワークを続けた後の軽いストレッチを思い浮かべてみる。最初は体が硬く、少しの動きにも抵抗を感じる。でも、ゆっくりと、優しく、そして何より自分のペースで動かしていくと、こわばっていた筋肉が少しずつ、でも確実にほぐれていくのを感じる。その感覚は、痛みと心地よさが微妙なバランスで混ざり合った、独特の満足感をもたらす。

読書もまた、そんな体験に似ている。本を開いた最初の数ページは、どこか居心地の悪さを感じるかもしれない。それは、日常の思考パターンという「こわばり」が、新しい考えや視点を受け入れることに抵抗しているからだ。しかし、ページを重ねていくうちに、その抵抗は徐々に和らいでいく。そして気がつけば、本の言葉が、考えが、静かに、でも確実に私たちの中に浸透してきている。

ここで重要なのは、この「浸透」は決して一方的な侵入ではないということだ。ストレッチが筋肉の自然な伸縮性を引き出すように、読書もまた、私たちの中にすでにある柔軟性や受容性を呼び覚ますのだ。それは自分で自分を変えようとする意志的な行為とは異なる。むしろ、変化を受け入れる余白を、自然に、そして少しずつ広げていく営みなのである。

時には、その変化に戸惑いを覚えることもあるだろう。これまでの自分の考えが揺らぎ、新しい視点が押し寄せてくる感覚は、時として不安をもたらす。しかし、その不安もまた、ストレッチにおける「痛気持ちよさ」に似た感覚として受け止めることができる。それは成長の予兆であり、新しい可能性が開かれていく瞬間の証なのかもしれない。

結局のところ、読書との理想的な関係性とは、この「痛気持ちよさ」のバランスを見出すことにあるのではないだろうか。知識の獲得や思考の訓練といった目的を超えて、自分の内なる柔軟性と対話しながら、心地よい変化を受け入れていく。そんな関係性を築けたとき、読書は真にリラックスした、そして豊かな体験となっていくのだろう。

窓の外の空が少しずつ色を変えていく。本のページをそっと閉じると、体の中に、そして心の中に、かすかな心地よさが残っている。それは確かに、良いストレッチの後の、あの穏やかな解放感に似ていた。

読書は筋トレではなく、頭をほぐすリラクゼーションである。言うなればストレッチみたいなものだ。筋トレだと思ってるうちは間違っている。というか、筋トレとして読書をするのはあまりにも退屈だ。読んでられないだろう。じーっと本という事物と向き合う。やがて、こわばった筋肉は平伏し、筋の繊維に空気が浸食するのを拒めなくなり伸縮性が増していく。そのように、本もやがて僕の頭を浸食してくる。それによって、何かが「変えられてしまう」ことに快感を覚える類のメディアだ。何も自分で自分を「変えるもの」としての本では決してない。結論、本当の付き合い方というのは、ストレッチでいうところの「痛気持ち良い」強度を自らかけていく、その感覚を見つけていくものなのだと思う。

都築怜


元記事URL: https://note.com/reitsuzuki/n/nccc96653825e 公開日: 2025-02-12 18:00

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