『資本論』を読む。学習のアプローチとしての『1+1=2』
『資本論』を読む。学習のアプローチとしての『1+1=2』
ハリウッドの昔ver.みたいな風貌である。
マルクスの『資本論』を読み始めた。
きっかけは落合陽一さんの著書『デジタルネイチャー』にて、先の本の引用があったから。
僕が買ったのは岩波文庫のもので、全六冊あるらしい。
とりあえず第1巻を読んで、2巻目が昨日届いた。
まだ十分に1巻目を完璧に読み込んだ訳ではない。こういう系の本はいったん、さらっと見通すことから始めるようにしていて、まぁなんとなく、2巻目にいっていいような雰囲気が自分の中であったから、2巻目に手を伸ばした。
この感覚。「次いっていいな」という感覚は、僕のなかの話でしかないのだけれど、例えるならば、1+1が2であることくらいを承知して、一旦先に進んでおく感覚だ。
「1+1=2」がなぜそうなるかを証明するのは実は面倒、というのは結構有名な話。
まず、ペアノの公理を用いる。そして1と1の和で2という数字を捉えるのではなくて、「1の次の整数が2。だから…」みたいな形で証明していく話だったと思う。
僕をはじめとして、結局はじめから終わりまできっちりと1+1=2の証明ができる人は、実際に1+1の計算ができる人よりも遥かに少ないであろう。
それでも僕たちは、1+1=2を当たり前とした上で、それよりも遥かに難しい計算やらを入試問題で解いたりしている。
これは、iPhoneにも近いものを感じる。
iPhoneの中をこじ開けて、どんな仕組みで電源がついて、どんなオンラインでのやり取りによって今画面にヒカキンの『アイドル』が映っているのか、わかっている人は少ない。それでも僕らは、アプリを自由にインストールして、あれこれ便利に使っている。iPhoneを使いこなしている。
街の信号機だってそう。
どう電力を確保して、どんな仕組みで明るくなったり点滅したりしているのか、仕組みはわからないけれど、僕らはその辺りはわからないままで過ごしている。
点灯する色によって、自分たちがどんな行動を取れば良いかだけを押さえておけば生活には困らない。
その点で、マルクスの資本論の第一巻は「1+1の証明をしているようなグルーブ」を感じた。だから、2巻目を買った。
いろいろ話してるけど、結局、1+1は2だと言いたいのね、ということさえわかれば、今の僕にとっては一旦OKなのだ。そうでもしないと僕は資本論を読み切ることはできない。
この学習方法を僕は全力で肯定したい。
学習において粒度感の整理は非常に重要だと思う。
粒度感の整理から、謙虚さが生まれるとすら思う。
例えば、GDPを上げれば良い。
GDPはこれらの変数を使ってこんな等式で表せる。
よってこの要素を増やせば良い。
まず一旦、こんな話をワンパッケージとして一旦理解するべきだ。
その上で、なぜGDPを上げることが良いか、世界を良くするとはどういうことかについては、また別で議論を行うべきだ。
階段の段数を永遠に増やしているうちは、一向に登り切ることはできない。
半分ずつ切ったケーキが永遠に食べ終わらないように。
元記事URL: https://note.com/reitsuzuki/n/na3de1fcbcab0 公開日: 2024-02-13 18:00
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