逆の立場になって考えてみた。
逆の立場になって考えてみた。
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友達との思い出(続き)。 個人的に確からしいと思っていたセオリー、「実際にやってる(創作してる)方が、そのものへの記憶は定着しやすい」ということについて、 ことブログにおいては違うのかもしれない、という気づきを得た話。
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■ 今日聴いた曲 セシル・テイラー「Unit Structures」
https://open.spotify.com/album/2GQNkSoyBPwTkpuzn8niec?si=aA0SaBSLQVu7bGwecBZMtQ
ユニクロでブルーノートコラボのUTが出ると聞きつけ、Tシャツにプリントされてるジャケットから調べて聴いてみた曲。 うん、今まで聞いたジャズで一番難しい。 人に演奏前に、軽く音を調整しているように聞こえた。もう少し聞き込んでみよう。
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*現在mediumからnoteへの移行中につき、記事の全文を無料公開しています。なお、こちらの記事は2021年12月28日に書かれたものです。
結論、昨日の投稿の「次回予告」を裏切る今日の投稿になりました。 昨日は確か、「次回は”ついてない思い出”をお話ししたい」みたいなことを喋った気がする。
確かに、この前友達と会ったときの思い出はあまりついてるものではありませんでした。行くお店、行くお店全てが満席。わざわざ、僕らの遊び場「新宿」を離れたにも関わらずデニーズに落ち着く、という。
でね、デニーズでの話はそれはそれで楽しかったわけですよ。
だから、行けなかったお店たちで巻き起こった珍道中を話すんじゃなくて、デニーズでした話をしようじゃないかと。
さて、デニーズで友達と話していたのですが、 実は、その人、僕の記事を読んでくれていまして。
彼は気づいてないようだったけれど、mediumというメディアにはpublish機能がある。要は、複数人のライターで寄ってたかって、一本のメディアを運営することができるのです。
当然、ライター検索をすれば、その人の書いた記事がワーッと陳列されるわけですが、彼はこっちで読んでいたようです。 その点、僕は一応publish機能を利用していて、「cheez/チーズの自撮り展」というメディアに記事を寄稿している形をとっています。
それでも如何せんライターは僕一人なので、ライターの書いた記事を読めばメディアの記事と相違ないのだけれど。まぁ良い、そんなことはどうでもいい。
彼が読んでくれていたことは結構びっくりしたのですが、そこから過去記事トークが始まるわけです。本当に驚いたのはここからでした。 僕も久しぶりに自分の過去の投稿を振り返ってみました。
友達には、これが面白かっただの、これがつまらなかっただのを聞かせてもらった。なるほど、こういうのが面白いのか、と勉強にもなった。 そんな話のなかで気づいたことがあって、 自分よりも彼の方が僕の過去の投稿について詳しかったのです。
「あ、あれそんな記事あったっけ」と彼に言われてから調べて、おぉ確かに書いてると。 その後に「そうそう」と、この時書いていた気持ちが引き出しから押し寄せてくるのです。 ただ、引き出しを開けてくれるのは決まって彼の発言でした。
このおかしな経験について数日ほど考えていたけれど、これは彼の問題でも僕の問題でもなく、一つの世界の真理かもしれないと思った、って話を今日はしたい。
というのも、僕も他人のブログを読むことがある。 ブログを読むくらいだから、文章が好きだったりその人が好きだったりするわけですが。
その人と会ったことを想像してみたのです。
「あの時の、このブログのどこどこ、あれ、すごく面白かったです!!!」
すると向こう、
「あ、あぁ…どうもありがとう(そんなこと書いたっけ)」
絶対こんな感じですよね。 直感ですが、なんかそんな感じだろうなぁと思ってしまう。 だから多分、こういうものなのだろうと思った。
さて、これをどう整理しよう、ってことなんですが。 強弱で整理してみるとわかりやすいかもしれない、と。 例えば、日々こまめに放出していく日記のようなものは、たぶん読み手の方が強い。一つ違うんだろうなと思ったのは、小説のようないわゆる文学作品のケース。これは書き手の認知範囲、記憶範囲を読み手が超えることはあまりないんじゃないかなぁ、と思う。
村上春樹さんに、「ここがとても…」とか話すと、なんか、「そこ」が何ページの何行目とか言わなくても、ピンと春樹さんと共通認識が取れそうなイメージが僕は湧きます。
だから、これからは作品と作品でない文章の違いを、どちらが強いかで判断しようと思いました。
そして同時に、なぜ僕がTwitterを作品っぽく、まるで作り込むように運営したいと思ってきたのかもなんとなくピンと説明がつきそうな気がしました。
だって、ツイートというのはつぶやきであって、決して作品になりづらいから。圧倒的に読み手が強い環境下で、「作品チャレンジ」をすることが面白いんだなと。 あんなの、書き手が負けて当たり前、みたいな世界ですからね。
ちなみに、 知識が読み手の方が上手(うわて)であったとしても、実際にやってるやつの方が理解というか腹落ちのレベルは深い、 みたいな話で整理していくこともできるとは思うのですが。 “何においてもやってるやつの方が上”、という理解でいた自分としてはそれはそれで驚きだったのです。自分の考えが極端だったなと。
そして言いたい。
読み手の熱量に書き手が負けているとき、 一瞬読み手が「すかし」を食らったような感覚に陥ることがあるかもしれません。
そして同時に、変に涼しい態度とってんじゃねえよと、書き手に思うことがあるかもしれません。「あぁ、そんなことも書いたっけ」、なんて冷めたツラで言われて、イラっとすることがあるかもしれません。
ただそれは、読み手のほうはたぶん怒らなくて良いのです。 その程度の文章だと思って良いのかもしれないからです。
書き手が誰よりも面白がっている、くらいでようやく作品なのかもしれないと思いました。 そして同時に、もっと書くことを面白がりたいと思いました。
元記事URL: https://note.com/reitsuzuki/n/n3969414aaae4 公開日: 2022-04-03 22:02
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