透明な理解のゆらめき
透明な理解のゆらめき
夕暮れの部屋に、青白い光が滲んでいる。スマートフォンの画面に映るゲーテ『哲学史講義』の言葉が、まるで空気中の埃を払うように、すうっと澄んでいく。23歳の頃には、5巻の大著は遥か彼方の山のように思えた。その頂に、いまはAIの導きで、驚くほど容易に近づける。
画面の中で言葉が煌めいている。長年見上げていた断崖が、ふいに優しい階段に変わったように、テキストの意味が明瞭な姿を見せる。その不思議な体験に、微かな戸惑いが寄り添う。
それは努力の価値を惜しむ気持ちでもなければ、テクノロジーを疑う心でもない。ただ、何か違和感がある。その感覚は、風に揺れる葉の影のように、掴もうとすると形を変える。
窓の外で、藤の花が風に煽られている。紫の房が描く軌跡は、一瞬一瞬で表情を変える。その揺らめきを、スマートフォンで写真に収めることはできる。でも、風の訪れを待ち、揺れを見つめ、かすかな香りを感じる、その時間そのものは留めておけない。
本を理解するということも、同じなのかもしれない。意味を掴むことは、その一瞬を切り取ることに似ている。けれど、理解には何か別の時間が宿っている。それは長さの問題ではなく、むしろ質のようなもの。藤の花の揺れを見つめるような、そんな時間の色合い。
雨上がりの庭で、葉から葉へと伝う雫の軌跡を追うことがある。一滴の水が次の葉へと落ちる間の、あの微かな躊躇い。その一瞬が、確かな時間の重みを帯びて、何かを伝えようとする。理解という現象も、そんな特別な時間の中でこそ、違う表情を見せることがあるのかもしれない。
スマートフォンの画面に、また新しい解説が灯る。その明晰さは、確かに私の理解を照らし出してくれる。けれど、その透明な理解と、どこか異質な時間の感覚が、水面に映る光のように揺らめいて見える。その不思議な重なり合いを、もう少しだけ見つめていたくなる。
ゲーテ『哲学史講義1』を買ったのは23歳くらいだろうか、それから何度も挑戦しては挫折し、確か全部で5巻ある本書もいまだに、1巻で止まってしまったまま、かつその1巻の内容すら理解できずにいた。それをclaudeが全て解決した。ページを撮った写真を添付して自分にもわかるように解説して貰えば、まるでマトリックスがスキルを脳に直接注入していくが如く、内容がすらすらと頭に入る。ただ、これで良いのだろうか。あれほど困ること、悩むこと、考えることが大事なのかもしれないと僕の心のどこかで薄々思うことも。それは、何か圧倒的な便益を目の前にした申し訳なさに近いものとしてでしか僕の前に現れていないのであるが、そのちょとした罪悪感から目を背くのが今は少し辛い。どうしたら良いのだろうか。
都築怜
元記事URL: https://note.com/reitsuzuki/n/n2cd8b549839e 公開日: 2025-01-15 18:00
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