無知の知。

下北沢で、学生の方と飲んだ、その帰り道の話。
駅に向かって歩いていると、まあ道が活気付いていること。

街にいる人の平均年齢が心地よく、低い。
いわゆるトー横みたいな場所は、平均年齢が怪しく、低いのでしょう。

その意味で、モラトリアムを謳歌しているこの集団のどれを取っても非常に健全で、かつ楽しそうで、僕はまるで神社の煙を浴びるように、素直にその元気を分けていただきたい、と思った。

学生の頃、僕も下北沢に行ったことがある。
僕もこの景色を作っていた一人だったのかもしれない。
そんな景色を作る主人公たちを、やや俯瞰するように、僕は横を歩く学生に言った。

「いいねぇ、やっぱり下北沢って楽しい街ですねえ」

すると、彼は僕に驚いた様子でこう話した。

「怜さん仰ったように、下北ってこんなに若い人多いんですね!」

「あぁ。確かに、そうねえ。」

普通の返事をしながら内心、僕は逆に驚かされた。

この地域で学生をやっておいて、下北という街の感じを知らないのか、と。

これはもう賞賛に値する。心の中で「素晴らしい!」と叫んだ。

・・・

要は、その学生は、確固たる「自分の興味」があって、それにのめり込んだが故に、下北沢という街に来たことがなかった、ひいては、下北沢という街がどんな街かも知らなかった人なのである。

このとき僕は、Netflixドラマ「クイーンズ・ギャンビット」の主人公が、学校の友達の間で流行っている曲を知らなかったような感じを思い出していた。「知る」ということへの覚悟と、その裏側にある犠牲を生々しく見た感じがした。

もしかしたら、「知る」とはそのくらい、覚悟と犠牲の上になるものなんじゃないか。そんなことを思い始めた。

というのも、最近、「知る」ということのハードルが低く感じられる。
親指でスクロールすれば情報にタッチできて、眺めていれば「知る」ことができるように思われる。

が、それは果たして本当の意味で知ったことにはならないのかもしれない。
知るということへの覚悟を僕も持ちたいなと、思った。


元記事URL: https://note.com/reitsuzuki/n/n1e737479f1c8
公開日: 2023-07-12 18:00