華金、アラサー2人が理想の結婚について話す

エッセイ(本文)


Bzの「イチブトゼンブ」の歌詞
“愛し抜けるポイントが1つありゃいいのに”
カッコいい歌だなあ。

https://open.spotify.com/track/3IYcbagYZ9z1Svaw8B33Pd?si=fdf530120c9249d4

台風が過ぎたばかりの金曜19:50。

8月の暑さが抜けて、空いたところに湿度が流れ込んだような、程よく暑く、そして気持ちの悪い夜だった。

僕は赤羽駅の改札前で、友達の到着を待っていた。

赤羽、レッドウィング。

そういえば数年前、「いつかレッドウィングを履いてみたい」って思っていたなぁ。

RED WINGのブーツ、ポストマンも格好良いけど、やっぱりベックマンでしょう。

https://youtu.be/zPagjV-Zt7g?si=sgii4PZbfqN8G0hF

僕ならベックマンを品よく履きたい!

まるで、トリッカーズのストウを履くように、ベックマンを、アメリカ版のカントリージェントルマン、の感じで履きたい。

今は…そんなに欲しくないかな。

「ヨォ。」

きっとそう言ったのだろう。

「うすうす」

だるそうに返事をしながらイヤホンを外す。

赤羽駅、改札まではすごく大きくて綺麗なのだが、駅から出た途端、一気に繁華街と化す。

さすが、東京近郊の有数の飲み屋街。

飲んでる間、僕は彼にいろんな話をした。

「僕は人と付き合い、一生を添い遂げることはもちろん気持ちが一番大事なのはそうだけれど、一定の経済合理性が下支えになるべきだと思うんだ」

「ほう」

「例えば、僕は肉や魚を獲るのが得意で、木の実をとるのは苦手。でもあなたはその逆。だったら、互いの得意に専念して、そのあとで収穫したものを分け合う方が、結果としてお互いの得られる食料の総量は増える。これが分業の価値であり、一緒にいる意味の基盤として設定されると、関係が安定すると思うんだ。気持ちは不安定なものだから、常に、アップアイドのものとして捉えていたいんだ」

「まぁ、言わんとしていることはわかるけど…」

「けど?」

「なんか、お前、普通になったな。」

予想もつかない回答が来て、拍子抜けした。

「ドユコト?」

「いや、今までのお前だったら、そんなこと気にしなかったと思う。気にすることのスケールの小ささが凡人でつまんねぇ。”普通”に成り下がったな」

悔しいと思った。つまり、何かを言い当てられた感覚もあったということだ。

「言い過ぎだろてめえ」

気づけば、まるで殺人犯が自らの罪をバレてしまったときのような爆笑をしていた。

「ぜってぇ幸せにしてやるからな。」

確かに、僕は大人になるにつれて、付き合う関係性の「正解」を探すようになっていたかもしれない。

形式としての綺麗な関係性のモデルばかりに奔走しては、目の前の相手を見失う。

まさにイチブトゼンブ。

「愛し抜けるポイント」があるかどうかだ。

まだ飲み足りなさそうな友人を置いて、僕は東京へ帰路についた。

気持ちの良い夜だった。

解説


都築怜のエッセイ「イチブトゼンブ」を読み終えて、私は深い感慨に包まれている。ここには、現代を生きる若者が直面する普遍的な葛藤が、赤羽という極めて具体的な場所と時間の中に結晶化されている。

B'zの歌詞から始まるこの作品は、一見すると友人との何気ない飲み会の記録に過ぎない。しかし都築は、この日常的な出来事の中に、人が大人になる過程で失いがちな本質的な何かを鋭く抉り出してみせる。経済合理性や分業の価値といった、いかにも現代的で「正しい」恋愛観を語る主人公に対し、友人が投げかける「普通になったな」という一言。この瞬間、物語は一気に深みを増す。

都築怜という作家の特質は、まさにこうした瞬間を捉える力にある。レッドウィングのベックマンへの憧憬と、その後の醒めた視線。かつて欲しかったものが「今は…そんなに欲しくないかな」と呟く瞬間に、私たちは成長という名の喪失を見る。都築は、この喪失を悲劇としてではなく、むしろ再生への契機として描き出す。

「殺人犯が自らの罪を言い当てられてしまったときのような爆笑」という表現は秀逸だ。ここには、自己の変化を認めざるを得ない苦い認識と、同時にそれを笑い飛ばす強さが共存している。都築の文体は、こうした複雑な感情を巧みに言語化する。短い会話、断片的な描写、そして唐突な心理描写の挿入。これらが織りなすリズムは、まさに赤羽の雑踏のような混沌と活気を感じさせる。

「愛し抜けるポイントが1つありゃいいのに」というB'zの歌詞に立ち返ることで、エッセイは見事な円環構造を完成させる。形式的な美しさや理論的な正しさではなく、たった一つの「愛し抜けるポイント」こそが関係性の本質だという発見。これは恋愛論を超えて、人間関係全般、ひいては生き方そのものへの問いかけとなっている。

都築怜は「普通」という現代社会の重力に抗う決意を、友人を置いて東京へ帰るという行為で表現する。この唐突な別れもまた、「面白く生きる」ことへの宣言なのだろう。台風が過ぎた後の湿った夜から始まり、「気持ちの良い夜だった」で終わる構成は、内的な嵐を経て辿り着いた清々しさを物語っている。

このエッセイは、読者一人一人に問いかける。あなたは今、どんな「普通」に囚われているのか、と。都築怜の鋭い観察眼と、それを支える確かな文章力が、私たちの日常に潜む非日常を照らし出す。彼の今後の作品にも大いに期待したい。