エッセイという快楽
全然関係ない話だけど最近、とっても小説が読みたい。
ここ1-2年、エッセイを貪るように読んでいた心の水源が、みあたらない。
僕はエッセイを、どのように、好きだったんだろう。
エッセイに書かれているのは、たいてい誰かの普通の日常。
その世界で起こっている出来事は、自分にも起こりうるかもしれないことで、実に地続きである。
ブログとどう違うの?
前に友人からブログとの違いを聞かれることがあって、しばらく考えていたことがある。
ウェブで調べるといろんな切り分けや区分の一般論が転がっているとは思うが、その転載をしてもしょうがない。
1つだけ、自分がエッセイを書く端くれとして意識していることがあって、それが「日常あった出来事を起点から、いかに自分なりの物事の捉え方、考え方、成長や変化に展開させるか」という点です。
なにを考えたか、の記録ではなく
なぜ/どう考えたか、の記録です。
1つ、考えたこと/思ったことがあったとして、
そこにはきっかけとなる出来事があります。
本人が顕在的/潜在的に当たり前としている対象への視点のやり方があります。
一定の価値観に基づく考え方のフレームワークがあります。
過去のエピソードとの関連性があります。
これら全てを踏まえてはじめて、「何を考えたか」の全体像が見えてまいります。
この全体の記録にフォーカスするのが、僕にとってのエッセイです。
きっと、「ブログを書いて」と誰かに言われたときに、僕はこの意気込みを持つことはないでしょう。
エッセイをなぜ書くか?
エッセイを書く理由は、自分のなかで当たり前となっている内面部分を曝け出し、客観視することで、書き手自身の内省の機会にするためです。
「わかってるもん」と思う人は大抵わかっていません。
悪いことしてないから良いという理由で、自分の行動を正当化したのち、
悪いことしてないから良いってもんでもないでしょう、と他人の行動を否定するのが人間です。
きちんと言葉に出してみると、しっかりと理解することができます。
この理解の度合いがグッと上がるので、言葉に出すことは極めて重要です。
エッセイをなぜ読むか?
ではエッセイは「書いて終い(しまい)」でしょうか?
僕は、誰かのエッセイを読むこともまた、すごく重要な意味を持つと思っています。
それは、「自分と近しい日常を生きる誰かの視点をカジュアルに引用できること、そして自分の世界を生きやすくすること」です。
自分にもあったかもしれない世界を生きる人間の当たり前の感覚/物事の捉え方は、
意外と自分には普通ではなかったりするもの。
それをカジュアルに引用してこれる気軽さがエッセイにはあります。
エッセイを読むことで何か大きな問題の解決に繋がることも、ときにはあるかもしれませんが、
本領発揮できるのは、日々の生活の細かな部分でほんの少し過ごしやすくなる、みたいなところだと思っています。
エッセイとは、書き手の生活に寄り添うことです。寄り添って”あげられる”のです。
この点こそ、エッセイを読む最大の魅力だと、個人的には思います。
あらゆる快楽のなかで、「誰かに寄り添ってあげることで生まれる利他的な満足感としての快楽」もまた存在すると思います。
エッセイはこの類の快楽を満たすものと理解できます。
おわりにーすごく感覚的なことの羅列
その快楽の回路が現在、うまく機能しない。
理由の1つとして考えられるのは、利他的な「してあげる」快楽を実生活で満たしているから?
あるいは、どシンプルに小説を読む快楽が今の自分にぴたりとハマっているから?
まず、小説はエッセイとは違って、自分が生きている日常の世界とは明らかに隔絶された別の並行世界を生きている感覚がある。
そして読後感にあるのは、Netflixとかのドラマシリーズを見た後のような「強烈なレス感」だ。
こうして、寂しさを埋めたくて、読み終わった途端に、つい次の作品に食指が伸びてしまう。
最近、ストレンジャーシングスを見返していたのだけれど、あれを見終わったときに思う感覚と非常に近しいものを感じた。
とはいえ、レス感はエッセイにもあったなぁ。
いやでも、エッセイはエッセイの方から離れていく感じがあった。こちらに、レス感を感じさせない、自立を促す風があった気もする。僕が勝手に寄り添うために近寄って、僕は僕の人生を、あなたはあなたの人生を歩くだけ。たまたま横断歩道ですれ違った誰かのように、たまたま近くを歩くことがあっただけ、でもそこで確かに僕たちは近づいた。そんなものをエッセイには感じる。小説はもっとパラレルワールドみたい。