updated: クラシックは普遍→スタイルは普遍
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「クラシックは普遍」。
言わずと知れた、ジェームズ・ボンドの名台詞である。
又聞きレベルの知見であるが、「クラシック」は「トラディショナル」とは異なる概念。和訳するならば「正統」というべきか。 習字でいう楷書体、という例え話は有名だ。個人的には、“標準”という言葉に、品格を纏わせたような概念だと理解している。
ボンドはホテルの部屋の洗面台で髭を剃ろうとしていた。慣れた手つきでシェービングブラシを手に持ち、肌に擦り付けていくと、みるみるうちに彼の顔の下半分がこんもりとした白い泡で包まれる。先ほど以上に鏡に顔を近づけて、洗面台のライトを全反射させている一枚刃のカミソリを手に持つ。刃を慎重に肌に当てて滑らせていけば、岩肌が雪から顔を覗かせたかのごとく、年相応に経年変化した素肌が露わになった。 彼の部屋にいた一人の女性。彼女が彼の一連の様子を見ながら「随分とトラディッショナルなスタイルなのね」と言い放った。ボンドは髭剃りの手を止めて鏡越しに女を見ながら言った。 「クラシックは普遍だ」
要するに、古めかしいやり方であると仄めかされたことに対して、これは標準であって、標準であるが故に普遍なんだ、と言い返したボンド。
ここ数年間、僕は彼のような考え方に僕は傾倒していた。クラシックとは何か、自分なりに勉強したりもした。ソリッドが基本、3色以内が基本、などなど。
そうしていくうちに、自分のなかである種の「読み違え」が起こってしまった。それは、「クラシックは普遍」という本来の理解ではなく、「普遍がクラシック」というようなことだ。PならばQが真であるとき、その逆もまた真であるとは限らないのは当然の話であるのに。
確かに、普遍性という物事の価値評価軸は今なお僕の中では非常に重要な位置を占めている。しかし、普遍的なものがクラシックである、という理解は明らかに間違っている。クラシックという1つのスタイルが、普遍性を獲得しているだけの話である。
正直、クラシックに傾倒していくうちに、禁欲的で排他的な物事の考え方をするようになっていった、そして、それに非常に窮屈さを感じることもあった。 そんなときは、自分の中で勝手に、「正解を選び抜く犠牲への覚悟」のような、ひん曲がった信条のようなものを持ち出して懸命に押さえつけようとしていた。
そんな意固地になっていた自分を解き放ってくれたのはプロッピースタイルだった。雑誌2ndの「プロッピースタイルとは?」というテーマ、吸い寄せられるように購入してしまった。 プロッピー的な着こなしを見て衝撃を受けた。 クラシックとは呼べないほどの柄の使い方、色の使い方である。なのに、途方もなくカッコいいのです。これはこれで認められるべき素晴らしいスタイルであって、これが「クラシックではないもの=標準ではないもの」という理解をするのはあってはならないと思った。プロッピースタイルにも、それなりの歴史と文化があり、標準性があると思ったのです。
確かに、流行り物は普遍的ではない。 ただし、流行り物とは、スタートの時点で決まっているのではなく、廃れたときに、流行り物になるんだと思う。 流行り物が、流行り物としてではなく、スタイルとして昇華されたとき、それは1つのスタイルとして、ある種の普遍性を獲得するのだと思ったのです。
これは自分たちの生き方にもそのまま反映させることができると思った。標準=正解の生き方なんてない。だからこそ、自分のかっこいいスタイルを追い求め、それをスタイルとして昇華させることで、自分という存在の永続性を獲得することができる。自分はここに生きていた、と説明できる。まさに、みんな違ってみんな良いのです。
結論、クラシックが普遍なのではない、「スタイルは普遍」なのである。
元記事URL: https://note.com/reitsuzuki/n/nd4330cac75a0 公開日: 2023-09-11 18:00
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