30歳になること。

数年前、30歳になろうとしている友人が僕に言い放った。
「俺、30歳で一旦死ぬねん」。

詳しく聞くと、
自殺とかの予定はないようだけれど、
いったん30歳で死ぬと仮定してみて、
それまでにやり残したことをメモに書き連ねては行動しているらしい。

もちろん実際には彼は30歳で死んでなんかいない。
今も変わらず友達だ。

とにかく彼は30歳に節目を置いた。
それも、人生における最も重要であり
最後の節目である「死」を実験的に持ち出してまで。

これは、例えば卒業式とか入社式とかのように
「いつかやってくる節目」ではなくて、
「意図して作られた節目」だ。

ではなぜ、彼は30歳を節目にしたのか?

僕の記憶では、彼が20歳を迎えようとしていたとき、
似たような行動は取っていなかったはず。

つまり彼は、
30歳になるタイミングだったから、
そこに何かしらの節目を置いたわけだ。

そして今、
僕もどこか特別な思いを抱えて30歳を迎えようとしている。
あのとき風変わりな目で見ていた僕も、
今ならなんとなく、
あのときの彼の気持ちがわかるような気がする。

この不思議について、少し考えてみた。


つい最近、
「平成一桁ガチババア」というネットミームが流行った。

X上でやや自虐的に、
自らそう名乗るケースをよく見かけた。

確かに「平成」は、やや過去のものとして
セピア色を帯びてきたようなきらいがある。

https://youtu.be/fdYFKOMQGUU?si=qtBqqiCrFD755lg3

平成一桁ガチババアという自虐が
「自虐」として嘲笑できるほど、
30歳という年齢は確かにそういう年齢なのだ。

というか、
そもそも「実際に老いていない」とか「まだ大丈夫いける」とか、
そういった言葉たちは、
「一般的にはこう思われるかもしれないけれど」という
誰かの言説に対する「否定」として存在するものであって、
既にある言葉たちを受け止めているから、
否定の言葉が初めて役割を持つのだ。

要は、肯定しているから、否定しているのだ。
”アンチ”エイジング、みたいなものだ。

だって本当に若い人は、
「まだいける」とか言わないし、思わない。
ババアとか言われても、ピンと来ないはずだろう。

その意味で、老いとは、
それを感じて自覚したときに始まるのではない。
まだいけるとか、そういった否定語を使い始めたとき、
「お前は既に老いている」。そう思うのだ。


さて、平成一桁ガチババアたちのポストで、
X上に懐かしい平成グッズが流れ込んでくる。
どれも昔の雰囲気がある。
少なくとも今ここにはないものばかりだ。

僕はこのとき、
それは30歳を迎えるこのタイミングになって初めて
「僕らの生きた青春が極めて固有なものであったこと」を知った。

今のティーンネイジャーは、
あれらのグッズに囲まれていない。
僕らが生きた青春時代とは全く違う技術や流行りや文化に囲まれている。
これは僕だけの感覚かもしれないが、
僕らの生きた時代はもっと主役だと思っていた。

もっと特別で永遠で、主役だと思っていた。

人生の主役は自分だとかそういう話ではなく、
他の誰かの生きた時代に対して相対的に主役だと思っていたのだ。

ただ、それは違った。

僕たちは主役の座を次の時代に譲ったのだ。
時代の主役とは、若くて新しい人が自動的になるもので、
あのときは僕らに順番が回ってきただけだったのだ。

まるで、お札に刷られたユニークなシリアルナンバーのように、
時代というものは、
どれひとつとして同じものはないけれど、
どれひとつとして秀でたものはない。

今はそういう感覚にいる。

「今はあなたたちが歴史の主役だから。」

30歳とは、担がれていた神輿から降りる年齢なのかもしれない。
マリオで言うスターを纏っていた頃ではなくなった年齢なのだ。
僕たちはスターだったのではなかったのだ

それは今になって気づく。

一方で、時代の主役になれないということではない。
日の光が勝手に当たることはない、と言うだけだ。
自分の素で神輿に担がれる人間に「なる」ことが求められる。

そういう転換点であり、
同時に、初速としてのエンジンがかけられる体力の残った年齢、
それが30歳なのだ。

少し身の上話をすると、

僕は東京に実家があって、
東京で育ち、周りもそうで、
大学は他の地域からも人が集まるけれど、
結局みんな東京で働く。

高校に入る、大学に行く、就職する。
これらは誰かとの別れを全く意味しない。
別れはゼロ、出会いしかない世界線だ。

僕が動かなくとも、すぐそばにぜんぶの友達がいるのだ。

地方の方は、少し感覚が違うかもしれない。
この世界線、全員と会える状況は、
逆に人と人とを会わせなくなる。
なぜなら、会う会わないの駆け引きが、
空中戦になっていくから。

例えば、遠く離れたところにいる友人の場合、
近くに来たから会う、みたいなロジックが成立する。
「会える、だから会おう」ということだ。

しかし、いつでも会える状況で、
「会う」というアクションを取ることは「会いたい」とか、
あるいは何か特別な意味をどうしても帯びてしまうものだ。
こうして、物理的な距離以上に、
会うことに対するハードルはグッと高まっていく。

これが東京育ちの人間が持つ
人間同士の付き合い方のロジックとしてあると思う。

そんな状況下で、
30歳にもなるとライフステージの変化が起こる。
友達が結婚していく。子供ができる。

要は、遠くにはいないけれど、
ちゃんと「会えない」という理由ができる。

会える人と会わなかった世界から、
会えない人に会えなくなった世界になる。
こうして、僕は孤独になる。そんな30歳だ。

さて、どう生きていこうか。
色々考えながら、突っ走っていきたい。
太陽はまだ沈んでいない。
メロスのように、残光の一片すら消えゆく、
その瞬間に今自分はいるような気がする。

走ろう。もっと早く、もっとしぶとく。